グラディエーターが、見たくなった。
そう、あのリドリー・スコット監督の映画「グラディエーター」である。
今朝、りくりゅうの演技を見ていて、映像が蘇った。
それほど、二人の信頼関係が、見事に溢れていた。
そして、オリンピックフィギュア会場は、コロッセオのようだった。聴衆は、たった二人の姿に固唾を飲んでいる。ローマ時代は、お互いを傷つけ合う戦いだった。しかし、ペアのグラディエーターは、二人揃って、信頼しあっていた。それでいて、自分とも闘っていたのだ。演技終了後、ともに語っていた。
出会いが奇跡だ。
感謝しかない、と。
氷上の戦士たち、その静謐な闘志
三浦璃来と木原龍一。この「りくりゅう」ペアが氷上に描く軌跡は、単なるスポーツの枠を超えている。スピードに乗ったスケーティング、呼吸をするように同調するスピン、そして放り出された空中で身を委ねるツイストリフト。そこには一切の迷いがない。
通常、戦いとは相手を打ち負かすものである。しかし、彼らの戦いは質が違う。重力との戦い、プレッシャーとの戦い、そして何よりも「二人の調和」を崩そうとする見えない力との戦いだ。その戦いの中で、彼らの武器は剣でも盾でもなく、互いに差し伸べる「手」と、交わす「視線」だけである。その姿があまりにも潔く、美しいからこそ、観る者の胸を打つのだ。
コロッセオとリンク、残酷さと美しさの狭間で
かつてのコロッセオは残酷な場所だった。だが、同時にそこは人間の極限のドラマが生まれる場所でもあった。現代のフィギュアスケートのリンクもまた、ある種の残酷さを秘めている。たった一つのエッジのズレ、コンマ数秒の遅れが、これまでの4年間の努力を一瞬にして無に帰すかもしれない。そんなヒリヒリするような緊張感の中に、彼らは身を置いている。
だが、映画「グラディエーター」の主人公マキシマスが、絶望の中で尊厳を失わなかったように、りくりゅうの二人もまた、氷の上で気高くあり続けた。傷つけ合うのではなく、支え合うこと。それが現代のグラディエーターの新しい戦い方なのだと感じずにはいられない。
過去からの祝福、「このふたりじゃなけりゃだめ」
演技が終わった直後、感動の余韻に包まれる中で、ある言葉が電波に乗った。解説を務めていた高橋成美さんの言葉である。
「うれしいです
こんなに嬉しいことないですよ
このふたりじゃなけりゃだめなんです」
この言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。高橋成美さんは、かつて木原龍一のペアパートナーとして世界と戦った戦友である。誰よりもペア競技の難しさを知り、そして木原龍一というスケーターの苦悩も、努力も、その全てを肌で知っている人物だ。
かつて共に氷上で闘った相手が、今、別のパートナーと最高の演技を見せている。普通であれば、そこに一抹の寂しさや複雑な感情が混じっても不思議ではない。しかし、彼女の口から出たのは、純度100%の祝福だった。
「このふたりじゃなけりゃだめなんです」
この言葉には、どれほどの深さがあるだろうか。これは単なる感想ではない。木原龍一の隣にいるべきは、自分ではなく、今のパートナーである三浦璃来なのだという、強烈な肯定である。二人の化学反応を、誰よりも理解している者だけが辿り着ける確信の言葉だ。
人は出会い、別れ、また新しい出会いを重ねる。その中で成長し、変化していく。高橋さんの言葉は、過去への執着ではなく、未来への祝福である。彼女もまた、解説席という別の場所で戦うグラディエーターであり、その清々しい態度は、人間の品格そのものだった。これもまた、広い意味での「感謝」の一つの形なのかもしれない。
パートナーがいるということ
「出会いが奇跡だ」「感謝しかない」。演技後に二人が語ったこの言葉は、高橋さんのコメントと響き合い、より一層の重みを持つ。
一人では決して見られない景色がある。一人では耐えきれない重圧がある。映画の中で、将軍マキシマスが仲間との絆を力に変えたように、りくりゅうの二人もまた、互いの存在を推進力に変えている。
現代社会は、個の時代だと言われる。一人で生きることが容易になり、他者との関わりが希薄になりがちだ。だからこそ、氷の上で手を握り締め、命を預け合う二人の姿に、私たちは強烈に惹かれるのだろう。「信頼」という目に見えないものが、確かにそこに存在していることを証明してくれるからだ。
グラディエーターを、また観たくなった
映画「グラディエーター」のラストシーン、主人公は家族のもとへと旅立つが、その魂は自由となり、永遠の平穏を得る。りくりゅうの演技を見終えた後の感覚は、それに似ていた。激しい戦いの果てにある、静かな浄化のような感覚だ。
古代の戦士も、現代のスケーターも、そして私たちも、それぞれの戦場で戦っている。だが、隣に信頼できる誰かがいるだけで、その戦いは孤独なものではなくなる。
あなたには、心から「感謝しかない」と言えるパートナーがいるだろうか。あるいは、「この人じゃなけりゃだめだ」と誰かの幸せを祝福できる心を持っているだろうか。
りくりゅうの滑りは、そんな根源的な問いを私たちに投げかけているような気がしてならない。だから私は、今夜また、あの映画を観ようと思うのだ。