三毒と三業 ~庭師から学ぶ、心と行いの調和への道~

2025/03/29

仏教の教えには、私たちの日常生活をより良くするヒントが詰まっています。
特に「三毒」という概念は、心の悩みの根源を理解する上で重要な鍵となります。

三毒とは何か

仏教では、私たちの心に生じる煩悩の根本を「三毒」と呼びます。
この三毒は次の三つです。

  • 貪(とん):欲望、執着、むさぼる心
  • 瞋(じん):怒り、嫌悪、拒絶する心
  • 痴(ち):無明、迷い、真実が見えない心

これらは私たちの心を曇らせる「毒」のようなものとされています。
人生の苦しみは、実はこの三毒から生まれることが多いのです。

庭師のたとえ話

ある庭師の物語を通して、三毒について考えてみましょう。

美しい庭を持っていた庭師がいました。
彼は毎日この庭を手入れし、多くの人が訪れては癒されていました。

しかし、彼には三つの問題がありました。

一つ目は、「もっと美しい花を集めたい」と常に思っていたこと。
隣の庭の花を見れば「あの花も欲しい」と思い、自分の庭の美しさに気づけなくなっていました。
これが「貪とん」の表れです。

二つ目は、来訪者が庭を褒めないと不機嫌になることでした。
「こんなに手入れしているのに」と不満を持ち、来訪者に冷たく接することもありました。
これが「瞋じん」です。

三つ目は、庭を「自分だけのもの」と思い込んでいたこと。
実は庭の花は風や虫、太陽、雨など、多くの縁によって咲いているのに、その真実に気づいていませんでした。
これが「痴」です。

三毒が生み出す行為

三毒は単に心の中に留まらず、私たちの行為として現れます。
仏教ではこれを「三業」と呼びます。

  • 身業(しんごう):体で行う行為
  • 口業(くごう):言葉で行う行為
  • 意業(いごう):心で思う行為

庭師の「貪とん」は、他人の庭から花の種を無断で持ち帰るという身業しんごうとなりました。
「瞋じん」は来訪者への冷たい言葉という口業に、「痴」は「すべて自分の力だ」という独りよがりな考え(意業いごう)になりました。

やがて庭は寂しくなり、訪問者は減り、庭師自身も孤独になっていきました。

坐禅による三毒の克服

ある日、ある老師が庭師を訪れ、こう教えました。

「坐禅をしなさい。姿勢を正し(調身)、呼吸を整え(調息)、心を静める(調心)。
 この『調身調息調心』によって、あなたの心と行いが自然と調和するでしょう」

庭師は毎朝坐禅を始めました。
初めは5分も座れませんでしたが、継続するうちに長く座れるようになりました。

坐禅の中で、自分の三毒に気づくようになったのです。

「私は『もっと』と求め(貪とん)、『認められない』と怒り(瞋じん)、『すべて自分のもの』と思い込んでいた(痴)」

坐禅を続けるうちに、姿勢の安定が心の安定をもたらし、三毒に振り回されることが減っていきました。

三業の調和

坐禅の習慣が定着すると、庭師の三業も調和していきました。

調身(姿勢を正す)の習慣は「身業しんごう」に現れ、他人の花を盗むのではなく、丁寧に種を分けていただくようになりました。

調息(呼吸を整える)の体験は「口業くごう」を変え、不満の言葉ではなく「お越しいただきありがとう」という感謝の言葉が自然と生まれるようになりました。

調心(心を静める)の実践は「意業いごう」を変え、「自分の庭」という思い込みから、「皆の庭」という広い視野へと変化しました。

三業が調和すると、庭は再び息を吹き返し、多くの人が訪れるようになりました。
そして庭師自身も穏やかで幸せになりました。

日常への応用

私たちの日常にも三毒は常に表れています。

例えば、

  • SNSで他人の投稿を見て「いいね」の数を羨む気持ち(貪とん
  • 電車で席を譲らない人への怒り(瞋じん
  • 「自分は正しい」という思い込み(痴

三毒に気づくためには、坐禅のような心を静める時間が役立ちます。
朝の5分でも、姿勢を正し(調身)、呼吸を整え(調息)、心を静める(調心)時間を持つことで、日常生活の中でも三毒に気づけるようになります。

お釈迦様は言いました。

「心が曇れば、言葉も行いも曇る。
 心が清らかになれば、言葉も行いも清らかになる。
 雪解けの水が山から流れ出るように、私たちの行いはすべて心に従う」(ダンマパダ)

三毒を知り、それを静めることが、心の平安への第一歩なのです。

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