常楽寺という名前は「常楽我浄」から
仏教の教えの中には「常楽我浄」という素敵な言葉があります。
これを一言で言えば、私たちはすでに「はっぴーの中に生きているんだよ」ということです。
どういう意味なのか、ちょっと詳しく見てみましょう。
「常」という字の意味
まず「常」というのは、変わらないもの、永遠に続くものを指します。
つまり、私たちの幸せや心の安らぎは一時的なものではなく、本当はずっと続くものだということです。
例えば、朝起きたときに「今日は素晴らしい一日になる!」と信じることができたら、その日は本当に素晴らしい日になるでしょう。そうやって、幸せを見つける目を養うことが大切なんです。
ちょっと詳しくお話しすると・・・”永遠性”
仏性は常に存在し、時間や空間によって変化することがない永遠のものとされます。
この「常」の徳は、仏性が無始無終であり、絶えることなく続くという概念を示しています。
これは、すべての生命が根源的には生死を超えた存在であることを意味します。
不変性、永遠性を示し、すべての変化や無常から自由である状態を意味します。
「楽」という字の意味
次に「楽」。これは文字通り「楽しみ」や「喜び」を意味します。
仏教では、深い喜びや満足感を持つことが重要とされています。でも、ここでの「楽」は派手なパーティーや豪華なご馳走のことではありません。
むしろ、小さなことに喜びを見つけることがポイントです。
例えば、朝のコーヒーの香りや、友達との何気ないおしゃべり、そんな日常の中に楽しい瞬間がたくさん隠れているんです。
ちょっと詳しくお話しすると・・・”幸福 ”
仏性は究極の幸福や安らぎを内包しています。
この「楽」の徳は、仏性が本来的に苦しみや悩みから自由である状態、すなわち涅槃の状態を指します。
修行を通じてこの仏性を発見し、開花させることで、真の幸福が得られるとされます。真の幸福や満足、苦しみからの解放を表します。
「我」という字の意味
そして「我」。これはちょっとややこしいですが、仏教では「自己」や「自分自身」を指します。
しかし、「我」を過剰に重視するのではなく、自分自身の真の姿を見つめることが求められます。要するに、「あるがままに生きる」ことが大切なんですね。
でも、これは自己中心的になるという意味ではなく、自分の内側の平和や満足感を大切にし、他人とも調和して生きるということです。
ちょっと詳しくお話しすると・・・”真の自己”
仏性には「真我」が存在します。
この「我」は一般的な自我やエゴとは異なり、全ての分別や執着を超えた普遍的な自己を示します。
仏性が開かれると、個々の生命はその真我を実現し、すべての存在との一体感を体験することができます。
真我、または自己の真実の性質を指し、非自我の概念を超越した存在の理解を示します。
「浄」という字の意味
最後に「浄」。これは「清らかさ」や「純粋さ」を意味します。
仏教では、心の中のネガティブな感情や思いを手放すことが強調されます。
例えば、怒りや嫉妬、恨みといった感情を持ち続けると、心が重くなってしまいます。
だからこそ、これらを浄化し、心を軽やかに保つことが大切なんです。
ちょっと詳しくお話しすると・・・”純粋さ”
仏性は一切の煩悩や障碍から自由な純粋な状態です。
この「浄」の徳は、心が本来持つ清らかさや純粋さを象徴しており、修行を通じて煩悩を取り除くことで、その純粋な状態に近づくことができます。
煩悩や垢(けがれ)からの清浄、純粋無垢な状態を意味します。
みんな、はっぴーの中で生きているんだよ
まとめると、「常楽我浄」の教えは、「はっぴーの中に生きているんだよ」というメッセージそのものです。
私たちはすでに幸せの中にいるんです。
変わらない幸せ(常)
日常の小さな喜び(楽)
あるがままに生きること(我)
そして心を清らかに保つこと(浄)。
これらを日々の生活の中で意識してみてください。
そうすれば、たとえどんなに忙しい日々でも、笑顔で乗り越えられるはずです。
「無常」という教えとの関係
仏教の教えには「無常」と「常楽我浄」という一見すると矛盾するような概念が存在しますが、実際には深い関係があります。
これらの教えを理解することで、仏教がどのように私たちの生き方に影響を与えるかがわかります。
「無常」という教え
まず、「無常」という教えについて説明します。
「無常」とは、すべてのものが常に変化し続けるということです。
花が咲いてもいつかは枯れ、人生も始まりがあれば終わりがあります。
これは、物質的な世界だけでなく、私たちの感情や経験も同様です。
幸せな瞬間もあれば、悲しい瞬間もあります。どんなに楽しい時も永遠には続かないし、どんなに苦しい時も必ず終わりが来るのです。
「常楽我浄」という教え
一方で、「常楽我浄」は、仏教が教える理想的な状態を表しています。
もう一度簡単にお話しすると、
「常」は変わらないこと、「楽」は深い喜び、「我」は真の自己、「浄」は清らかさを意味します。
この教えは、私たちが本来持っている心の平和や満足感、純粋な状態を示しています。
一見すると、変化し続ける無常の世界と変わらない常楽我浄の状態は矛盾するように思えます。
しかし、仏教の教えはこの矛盾を解消するための深い洞察を提供しています。
「無常」を理解することは、執着を手放すことを意味します。
私たちが何かに執着すると、その変化に対して苦しみを感じます。
しかし、すべてが無常であると理解すれば、その変化を受け入れやすくなります。
この受け入れが、心の平和につながるのです。
つまり、無常の理解が「常楽我浄」に至るための第一歩です。
さらに、「常楽我浄」は物質的な世界の変化に影響されない、内面的な状態を指します。
外の世界がどんなに変わろうとも、私たちの内側には常に変わらない安らぎや喜びが存在します。
これは、外部の出来事に左右されない心の状態を目指すことを意味します。
例えば、嵐の中でも穏やかな湖のような心を持つことが「常楽我浄」の状態です。
嵐(無常)は常に起こりますが、湖の底(心の平和)は変わりません。
このように、無常の中にあっても変わらない心の平和を見つけることができるのです。
要するに、無常の教えを理解し、受け入れることが「常楽我浄」に至る道です。
無常は私たちに執着を手放すことを教え、その結果として私たちは変わらない内なる平和や喜びを見つけることができます。
これが仏教の教えの深い調和です。
矛盾しているように見える「無常」と「常楽我浄」は、実はお互いを補完し合い、私たちにより豊かな生き方を示してくれます。変わり続ける世界の中で、変わらない安らぎを見つけることが仏教の目指すところなのです。
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