懴悔業障
我々が自己反省の重要性に目を向ける時、菩薩が行う「懺悔業障」の教えに心を傾けなければなりません。この教えによれば、我々は過去の計り知れない長きにわたる時間の間に、貪(欲望)、瞋(怒り)、癡(無知)の三毒に従い、身、口、意(心)で為した無量の悪行を持つことを認めるべきです。これらの悪行が形となっていたら、虚空すらも満たすことはできないでしょう。私たちは今、すべてを清浄にし、法界に遍在する無数の仏刹に住む諸佛菩薩の前で、真心を持って懺悔するのです。そして、今後は二度とそのような行いをせず、清らかな戒律を守り、行動を功徳へと変えることを誓います。この懺悔は、虚空が尽き、衆生が尽き、行為が尽き、煩悩が尽きるその時まで、終わることはありません。しかし、虚空や煩悩が尽きることはないため、私たちの懺悔もまた終わることはありません。一瞬一瞬を大切に、途切れることなく、身と言葉と心と行いで、懺悔を続けていくべきです。
過去の悪行に深く目を向け、心からの懺悔の意を表すことの重要性が語られています。懺悔は、過ちを認めるだけでなく、清らかな心と行動で生きることの誓いを意味し、その精神を永遠に持続させることが強調されています。
秩父札所を巡る旅は、ただの観光ではなく、心の浄化と精神の成長への旅です。中でも、十一番札所である常楽寺は、その旅の中で特別な意味を持つ場所の一つです。ここには、「罪科も消えよと祈る坂氷 朝日はささで夕陽輝く」というご詠歌があります。この詠歌は、我々が持つ罪や煩悩が、朝日に照らされ、夕陽に輝く坂の氷のように溶けて無くなることを願う心が込められています。日々の生活で積み重ねた過ちや悩みが、清らかな自然の力によって浄化される希望の象徴です。 常楽寺には普賢菩薩が祀られています。普賢菩薩は、仏教における行動の理想を体現する存在とされ、菩薩行(仏道修行)の精神を象徴しています。普賢菩薩が祀られていることの価値は、ただ神聖な場所であるということだけではありません。それは、我々が自らの行いを振り返り、より良い方向へと進むための強い意志と、心からの懺悔を促す象徴としての役割を持つことです。普賢菩薩の前で、我々は過去の過ちを真心から懺悔し、清らかな心で再び歩み出す決意を新たにすることができるのです。 このように、秩父札所の一つ一つは、ただの仏教的な意義だけでなく、個々の人々の心の成長と精神的な旅の目的地としての重要な役割を果たしています。常楽寺での体験は、我々が持つ罪や煩悩を消し去り、心を清浄にし、普賢菩薩のような崇高な行動を目指す旅の一歩となるのです。